織田信長はどんな西洋音楽を聴いたか?

少し前になるが、テレビ番組「世界ふしぎ発見!」で、織田信長の黒人家臣を取り上げていて面白かった。信長の家臣に、"弥助"(彌助)という名前の黒人がいたことは知っていた。イタリア人宣教師のヴァリニャーノがお供(奴隷)として連れてきた黒人を、信長が大いに興味を示し、ヴァリニャーノから譲ってもらい、自分の家臣にしたのだ。番組では、当時、ヴァリニャーノ一行がポルトガルから日本に来る途中、アフリカで立ち寄った場所から、弥助がモザンピーク島出身(マクア部族)ではないかと推測している。実際にモザンピーク島のマクアの村に行ってみると、"ヤスフェ"なる名前の村人がたくさんいたので、"弥助"という名前は、本名の"ヤスフェ"という言葉を聞いて、信長が名付けたのかもしれないそうだ。これはスゴク『へぇ~!』である。腕力のあった弥助は、ボディーガードとして信長に仕えるが、知的で聡明なところも気に入られたようで、信長は弥助をいずれ殿様にしようとしていたとか。もし信長が天下を取っていたら、黒人大名が誕生していたかもしれない(@_@)

さて、番組では『本能寺の変』に遭遇した弥助が、信長の首を持ち出し、その首からデスマスクが作られた(本当か?)とか、『本能寺の変』で捕らえられた弥助のその後(命は助けられたらしい)についても推理していて、まだまだ興味は尽きないが、ここらで音楽の話にチェンジしよう。好奇心旺盛な信長は、安土城で何度かヨーロッパの音楽に触れていたらしい。ただ残念ながら、信長はどんな曲を聴いていたかは分かっていない。信長(1534-1582)が存命していた16世紀は、ヨーロッパではルネサンス音楽の時代。この頃の音楽なら、ジョスカン・デ・プレやラッソ、パレストリーナの作品か?またオルガンなどの鍵盤曲なら、カベソンの作品も考えられる。

ジョスカン・デ・プレ(1440頃-1521)は、フランドル楽派の巨匠で、ルネサンス期最大の作曲家のひとり。Yahoo!百科事典によると「ミサ曲、モテトゥス、シャンソンなどを多数書いたが、ミサ曲では、デュファイ以来の循環ミサ曲の形を通模倣書法を取り入れることによって完成させた。モテトゥスでも通模倣書法による作品が多いが、この書法は16世紀末までの宗教曲の基本的な作曲原理として受け継がれていった。シャンソンの分野では、15世紀のブルゴーニュ・シャンソンの形を脱して自由形式によるものを多く書き、16世紀のシャンソンへの橋渡しを行った」そうだ。


ジョスカン・デ・プレ:ミサ・パンジェ・リングァ~キリエ




ジョスカン・デ・プレの世俗曲から、「スカラメッラは戦に行く」。




アントニオ・デ・カベソンの作品もしておこう。カベソン(1510~1566)は、16世紀スペインで活躍したオルガン・チェンバロ奏者&作曲家。"スペインのバッハ"とも呼ばれ、変奏形式の音楽"ディフェレンシア"など、高い水準の鍵盤曲を残している。黄金時代のスペイン・ルネサンス音楽を代表する作曲家のひとりである。

カベソン:騎士の歌によるディフェレンシア
(プレイヤーが表示されない場合は上記の曲名をクリックして聴いてください)



カベソンの代表曲のひとつ。MP3はリコーダー四重奏の音色で制作。


カベソン:イタリア風パヴァーヌによるディフェレンシア
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こちらもリコーダー四重奏版。


カベソン:ミラノ風ガイヤルドによるディフェレンシア
(プレイヤーが表示されない場合は上記の曲名をクリックして聴いてください)



こちらのMP3はオルガンの音色で制作。YouTubeに、クラヴィツィテリウムとリュートによる珍しい演奏があったので紹介しておこう。




織田信長と西洋音楽の関わりについては、昔からよく話題になるが、信長は弥助からアフロ・ミュージックを聴かされた、という話があったならば、もっと面白かったに違いない ・・・そういえば、ちょっと違うが似たような空想をしている人がいた。私は読んでいないが、小説があったぞ!その小説は「桃山ビート・トライブ」(天野 純希)。小説では『本能寺の変』後の弥助が登場(主人公ではないらしい)。笛奏者や三味線奏者、ボーカルの代わりの踊り子とともに、弥助は太鼓奏者として一座(バンド)に参加し活躍するという話。強烈なアフリカンビートにのせて熱狂的な演奏を繰り広げる・・・荒唐無稽で破天荒なストーリーだ。小説すばる新人賞の第20回(2007年)受賞作品。なかなか面白そう。今度読んでみようかな(^^)

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